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プロフィール

総院長 花谷博幸ストーリー

を五体満足に生んでくれた両親に感謝します。私がこうして日々楽しくエキサイティングな人生を歩めるのも、両親が私を健康的に育ててくれたことだと思っています。私は2750g仮死状態で生まれました。母は妊娠中にドクターより「危ない」と宣告されていたそうです。

hh_prof01私がこの仕事に就くことになったのは学生時代陸上競技をしていた事に由来します。その頃はケガが絶えなく富士見市内の接骨院や整形外科によく通っていました。特に勝瀬中学校時代は記録も出ず、悩み多き少年時代でしたが、高校に入ると身長も体力も向上し、記録も順位も上がり、友人も多く、青春時代を謳歌していました。高校時代、父に連れられ都内の治療院に行き、師匠(池上六朗氏)と出会いました。最終的にこの職業への決心はその師匠に対する憧れからでした。

hh_prof02その後、ある縁で中国に中国医学を学ぶため3年間行く事になり、山西省という埼玉県との姉妹都市に留学。留学して半年後には病院内研修という日本人の全くいない環境に置かれ臨床学習を行いました。言葉も解らない状態から担当患者を持つまで、あの3年間は本当に勉強しましたし、貴重な時間でした。特に鍼灸、漢方、最後は心臓(聴診器には才能あり)まで中国でも最高峰の先生方とマンツーマンで研修できた事は今も大いに役立っています。

帰国して鍼灸専門学校に3年間、国家資格も一発合格して鍼灸師となりました。実は学生の頃から開業はしており、今でもその頃からの患者さんに私は育ててもらっています。

99年、3回目に移転した治療院で、移転直後に火事が階下の店舗から起こり、治療院は全て煙でいぶされ長期休業に追い込まれしました。あの時、消防士に「貴重品を持ち帰ってください」と言われ、私は現金とカルテ、妻は入り口にあったスリッパを持ち帰ったのです。なぜスリッパだったかと言えば、彼女が初めてのテナントの治療院作りの際、最後まで悩んでいたのがスリッパ選びだったからでした。

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どんな不幸も過ぎれば伝説となるものです。最近ではセミナーの鉄板ネタです。

開業当初の約7年間は患者さんが本当に来ない、たった一人の貧乏治療院でした。それでも自分を信じ、師に学び、技術や人間力の研鑽をし、帰国後は月20冊読書と夢ノート(現在71冊)の継続をノルマとして行ってきたことが今の発展成長につながっています。

2003年、治療院運営が安定すると、全国のプロの治療家、院長先生に対して経営や治療術を指導する研究会を立ち上げ、現在、治療業界で最も大きい研究会を主宰するようにまでなりました。そのため全国各地で学習意欲の高い院長達(全国1000軒超)を門下とし、セミナーを年間20本ペースで主催しております(1年間は52週です)。書籍の出版も7冊でき、お陰様で業界ではバイブル書籍としてその存在を維持しています。既にこの研究会も20年以上継続しています。

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2012年、私は小さな夢を達成しました。私が20代の頃よくナップザック1個で歩き回ったアジア大陸。特に長男が生まれた時に決めた夢。それはインドのスラムを二人で旅をすること。やっと小学校高学年になり、あの頃同様に二人で世界最大のスラムを歩いてきました。強烈な体験として彼に世界を見せることができ、旅のスキルこそが生きるスキルだと教えてきました。その後長男はフィリピンに留学し、一人でインドのスラムを再び旅するようになりました。

次は次男です。

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2013年、20年営んできたみずほ台のバランス研究所を閉じ、今まで分院であった柳瀬川にあるバランス整骨院に統合して診療をすることになりました。葛藤がなかったわけではありませんが、次に進むために決断をしました。そして全国から集まった多くの直弟子への指導により多くのことを学びました。

開業して30年。いつの間にかスタッフも増え卒業生も増えました。はただ、上質な治療を求めつつ、業界をリードし、後進を育成し、背中で夢を語れる男になれるよう行動し続けることだと思っています。そのためにも自分の活動の中心である、このバランス整骨院を業界でリスペクトされる治療院にしていきたいと思っています。

2020年、コロナにより、チームバランスは開業以来30年間行っている1治療1消毒をしてきたことに胸を張り、日本中の店舗の中でも最上級の衛生環境を外注工事、チームで徹底衛生管理をすることで、多くの患者さんが安心できる治療院をつくってこれました。

これからも日本トップレベルの治療とサービスの提供と、気楽に通える明るく笑いのあるビキゲンな治療院を目指します。柳瀬川のこの地に、街のオアシスとして存在できることを目指していきます。

どうぞ今後とも末永くご愛顧よろしくお願いします。

 

 

菊地浩平ストーリー

初めまして、青森県出身の菊地浩平(きくち こうへい)です。

私は、教師の両親の一人っ子として生まれ育ちました。幼少の頃は体が弱く、何度も熱性痙攣を起こして入退院を繰り返していたそうです。そんな私も昔の病弱さが嘘のように中学、高校では6年間皆勤賞を取るほどの丈夫な青年になりました。今まで丈夫に育ててくれた両親には心から感謝しています。

そんな私の幼い頃からの夢は、飛行機の整備士になることでした。いわゆる航空整備士という職業です。その夢をずっと追い続けていましたが、高校2年生の冬、唐突に、治療家になりたい!と思うようになりました。一番影響されたのは、私が通っていた整骨院の先生の存在でした。学生時代、陸上競技一筋で部活をしていた私は多くの怪我を経験してきました。その都度お世話になり治療してくれていた整骨院の先生。私自身も「こんな先生になりたい!」。この想いが日に日に強くなっていき、人を助け、身体だけでなく心の痛みもケアができる、柔道整復師という仕事を志すことになったのです。また、身近な従兄弟が同じ柔道整復師という仕事をしていたことも私の夢を変えた大きな要因だったのかもしれません。

目標が明確になってきたある日、その思いを両親に伝えると、想像を超えて両親が驚いていた姿を今でも鮮明に覚えています。両親にも希望はあったかもしれませんが、私の両親はいつでも私の意志を尊重してくれました

 高校卒業後、お世話になった整骨院の先生と従兄弟の母校であり、業界トップの日本健康医療専門学校に進むことになりました。初めて親元を離れ、憧れの東京での一人暮らしを思い描いていましたが、上京直後、青森との空気感や雰囲気の違いから、とてつもないホームシックに襲われ、自分の居場所を失いかけました。ただクラス長として同級生一人も欠けることなく全員で国試合格をするんだという目標を得ることで自然と東京生活にも慣れていきました(お陰で同級生64名全員国試合格しました)。

ある時、専門学校の担任が「凄いチャンスをやる」と言って花谷先生がたまたま学生の求人をしていることを紹介してくださいました。私は二つ返事で「是非、お会いしたいです!」とお願いしました。初めてお会いした時の花谷先生の力強い握手は今でも忘れることができません。その後は研修生として花谷先生のセミナーに帯同させていただき、こんなに凄い人の下で仕事ができるチャンスを逃すわけにはいかない!と思い、必死でバランスの仕事を覚え、全国の院長先生たちと厳しい組手実習による治療指導を受けました。そして2021年春、晴れて国家試験合格!専門学校で過ごした3年間は、今までの人生の中で最も濃密で充実した時間だったと確信しています。

学業と同級生、バランスでの仕事、東京でのたくさんの新しい体験ができました。これまで、私を導いてくださった両親をはじめ、バランス整骨院の先輩たち、同級生に負けないよう精一杯、夢をやり切りたいと思います。皆様どうかよろしくお願い致します!

菊地浩平(きくち こうへい) 

 

 

 

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